8/10(水) ䷛ 澤風大過󠄃(たくふうたいか)→䷐ 澤雷隨(たくらいずゐ)

8/10(水) 澤風大過󠄃(たくふうたいか)→ 澤雷隨(たくらいずゐ)


【運勢】
物事の土台が不安定になる時。
変化を見極める事が大切である。
熱い気持ちは内に秘め、先人に倣い謙虚に過ごすと良い。
行動には責任が伴う。
自らの役目を最後まで全うする事が大切である。


【結果】

本卦:澤風大過󠄃(たくふうたいか)
之卦:澤雷隨(たくらいずゐ)
《卦辭》
[上爻 少陰][五爻 少陽][四爻 少陽]
[三爻 老陽][二爻 老陽][初爻 老陰]
《爻辭》
[三爻][二爻][初爻]


【原文】
《本卦:
澤風大過》
大過は棟(むね)撓(たわ)む。往くところ有るによろし。亨(とほ)る。
彖に曰く、大過は大なるものは過󠄃ぐるなり。棟撓むとは、本末弱ければなり。剛すぎて中。巽にして說󠄁(よろこ)びて行く。往くところ有るによろし。乃(すなは)ち亨る。大過の時、大なるかな。
象に曰く、澤木を滅するは大過。君子以て獨立して懼れず。世をのがれて悶(うれ)ふることなし。


《之卦:
澤雷隨》
隨は元いに亨(る。貞に利し。咎なし。
彖に曰く、隨は剛に來たりて柔に下る。動いて說󠄁(よろこ)ぶは隨。元いに亨り、貞。咎めなし。しかして天下時に隨(したが)ふ。時に隨(したが)ふの義、大なるかな。
象に曰く、澤中に雷あるは隨。君子以て晦(みそか)に嚮(むか)ひて入りて宴息(えんそく)す。


【解釋】
《本卦:
澤風大過》
〔王弼の解釋〕
大なるものはよく過ぎることが出來るものである。初爻が本であり、上爻が末である。初爻は陰に居て過ぎるのである。二爻は中。弱󠄃の極みであり、衰を興す。それでも中を失わない。巽順で喜び行く。だから難󠄄を逃れる。君子は為すことがある時である。大過は普通では及ぶところではない。


〔東涯の解釋〕
陽大であり、陰は小である。大過は大なる者が過󠄃ぎる。四つの陽が中心に集まって、二つの陰が外に居る。陽が過剰に盛んになる。棟の中心が太く、端が細く弱くなっている。二爻と五爻が陽剛の才があり、中に居る。巽順であり、喜びゆく。うまくいく。憂虞(ゆうぐ)の時にあれば、陽剛の才が必要である。或いは厳しすぎ、失うこともある。棟が撓む時に当たり、剛にして中に居る。人心が服すのを嫌うと、行きて利なし。


〔根本通明の解釋〕
上下の陰爻の間に陽爻が四つ連なっており、剛の方が多いため大に過ぎる。下卦の巽は五行では陰木である。堅く丈夫な陽木に対して、陰木は柔らかで弱い。棟ばかり多くても、受ける方の木が弱ければ、棟も撓んで来る。また兌の卦は水である。上の水が下に流れて来て、天下の人は皆水中に居るが如くに苦しむ。此れを救わなければいけない。進んで往けば志を遂げられる。
[彖傳]
君や役人が大なる事を好んで贅沢が過ぎて居り、其れを受ける方の人民が弱って居る。陽爻が多く剛が過ぎるが、二爻目も五爻目も中を得て居り、丁度世の中を治めるのに宜しき所がある。上卦の兌は悦びの象があり、和して人と共に行う。其処で人の助ける所があり、往く所あって宜しきを得る。上下共に奢り盛大なる方に過ぎる世であるから、遂に人民は奢りのために倒れるようになる。此の時に志あるものは大いに為すべき所がある。
[象傳]
楊(やなぎ)が水中に潜って居る。楊は陰木で水を好むが、過ぎれば害を為す。上下の陰爻に陽爻が包まれている。陰爻に挟まれた内側の陽爻を一つと見れば、坎(
)の卦の似体である。坎の卦は小人であり、洪水の如き世の中である。しかし君子は我れ一人独立し懼れることは無い。世を遯れても非望を抱かない。


《之卦:
澤雷隨》
〔王弼、通解の解釋〕
隨はしたがうの意󠄃味である。内卦は震で動き、外卦は兌であり、よろこぶの意󠄃である。君主が行動するとき、人々はよく協力してくれ、思い通りにできる。人々は時機にしたがい行動する。


〔根本通明の解釋〕
随は後ろに随って行く義である。同じ「したがう」でも、従の字は左に付いても右に付いても従うだが、随の字は後ろに附いて行くという義である。初九はニに随う。二は三に随う。三は四に随い、四は五に随い、五は六に随う。先の方に随うという象があるが、何でも随へば良いわけではない。仁義礼智に外れないようにすれば咎が無い。
[彖傳]
初九の陽爻が二・三爻目に随っているので、剛柔に随う。下卦の震は雷なので動く。動いた先の兌が說ぶ。随うには正しき所をもってすれば、必ず大いに亨る。二・三・四爻目の艮は時の象がある。時は重要で、必ず随わなければならない。
[象傳]
兌は秋、雷は春である。春に雷が出で、秋に沢中に潜む。これは時に随うの義である。君子は晦に嚮(むか)う。晦は日の暮れる所である。

8/9(火) ䷱ 火風鼎(かふうてい) 二爻

8/9(火) 火風鼎(かふうてい) 二爻


【運勢】
運気が好転し、順調に進む時。
功を焦ってはいけない。
自己管理を徹底し課題に取組むと良い。
柔軟な姿勢を心掛け、信頼する仲間との調和を大切にすると良い。
志高く、成果が出るまで堅実に努力を続ける事が大切である。


【結果】
䷱◎
火風鼎(かふうてい) 二爻
《卦辭》
[上爻 少陽][五爻 少陰][四爻 少陽]
[三爻 少陽][二爻 老陽][初爻 少陰]
《爻辭》
[二爻]


【原文】
《卦辭》
鼎は元(おほ)いに吉、亨(とほ)る。
彖に曰く、鼎は象なり。木を以て火に巽れて、亨飪(かうじん)するなり。聖人亨(かう)して以て上帝を亨す。而して大いに亨して以て聖賢を養ふ。巽(そん)にして耳目(じもく)聡明(そうめい)。柔進みて上行す。中を得て剛に應ず。是を以て元いに亨る。
象に曰く、木の上に火有るは鼎(てい)。君子以て位を正し、命を凝(あつ)む。


《爻辭》
九二。鼎に實有り。我が仇疾に有り。我に卽くこと能はず。吉。
象に曰く、鼎に實有りとは之く所󠄃を愼しむなり。我が仇疾に有りとは、終に尤なきなり。


【解釋】
〔王弼、東涯の解釋〕
《卦辭》
古い制度が新しく刷新され、新しい制度が定着するので大吉である。さらに、それが長くなる持続するので亨るという。鼎(かなえ)は食べ物を煮炊きする器である。程子はこの卦自体が鼎の形を象っているとする。初爻が鼎の足で、二爻から四爻までが鼎の腹、五爻が口で、上爻が蓋であるとする。下が木德であり、上が火德であるから、物の煮炊きに良いので、鼎とされるのである。革の卦と対応しており、五爻と二爻が応じており、和順で聡明である。だから、大吉なのである。何かをする時に人の助けがあり、その人に任せられる。君臣の心が通じ合っている。おそらく、亨と烹は音が通じるので古代にはどちらも使われていたのであろう。


《爻辭》
[王弼]
陽質で鼎の中にある。實があるものである。加えてはいけない。これを益すると溢れてしまう。却って実を傷つけてしまう。我が仇とは五爻の事を言う。剛の上に乗ることの疾に悩む。
[東涯]
仇とは好敵手のことである。初爻を指している。陽剛で中に居る。五爻と応じている。五爻のもとに行くのが良い。陰陽は互いに求めるのは天地の大義である。陽が陰を求めると正しきを得る。陰が陽を求めれば正しくない。人の付き合いは慎重にしなければならない。


〔根本通明の解釋〕
《卦辭》
鼎は三足の鍋で、天下の宝器であり、王の象徴である。日本でいうところの三種の神器である。鼎は五味を調和することが出來る。だから肉であれ、魚であれ、釜で煮た後、最後は鼎に移して味を調えたのである。天地宗廟の祭祀に用いる神饌は鼎で調理され、賓客への御馳走も鼎が用いられた。伏羲の時代には、一つの鼎が宝器であった。もとより天地万物は一つのものから生じたわけで、天地人の三才は鼎の三足、それが鼎により調和されるのである。それが黄帝の時代に三つの鼎になった。三才を表すためであるという。堯舜までは三つであった。その後、夏王朝初代の禹王の時代に九つになった。なぜなら、九州(漢󠄃土全体は九つの國に分かれていた)を象徴するためである。周代まで九つであった。政治も料理と同じで、五味を調和して誰にとってもおいしいものでなければならない。だから鼎が王の象徴なのである。王を助けるのは宰相であるが、この宰の字は肉を盛って料理をこしらえるという意味である。そして十翼に鼎を主るのは長子であるとする。つまり、皇太子が皇統を継ぐべきであるというのである。それでこそ元吉なのである。
[彖傳]
初爻が鼎の足、二から四までに
があるが、これは物が入る部分である。五爻が耳、上爻が持ち運びのためのひもにあたる。五爻の耳に通すのである。元来、鼎は門外で煮炊きするもので、宗廟の門外東である。
[象傳]
木の上に火がある。火は物を煮炊きするのに必要であり、強すぎても弱すぎてもいけない。火にも陰陽があり、陽の火は強すぎて、すぐにものが焦げてしまう。逆に弱すぎると火が通らないで生のままである。陰陽が程よい状態ではじめて煮炊きが可能である。牛羊豚で鼎を分ける。是を三鼎という。三鼎は日月星を表す。心は巽順で耳目がしっかりしている。五爻の王は二爻の賢人を用いて大いに栄えるのである。


《爻辭》
九二は、二・三・四爻目に乾の卦があるから、丁度鼎の中に實を入れた所である。九二の仇である初六は、陰爻を以て陽位にあり位を得ていない。其所で賢人を嫉んで害する所の疾があり、趾(あし)を顚(さかさ)まにして上を侵そうとする。乍併、二・三・四爻目に賢人等が連なって居り、初六は迚(とて)も彼らを害するだけの力は無い。初六は四爻目に応じて居るが、其の間に陽爻が二つあり、四爻目と相合う事は出来ない。九二は六五と位が応じて居り、我が身にある学問道徳を以て、六五の天子に盡す。其所で鼎の中の實は、何処迄も六五へ往かなければいけない。其所で、之(ゆ)く所を慎むと云う。我が仇が嫉み害する所があっても、我には一点の隙も無いから、終には咎を受けない。