8/9(火) ䷱ 火風鼎(かふうてい) 二爻
【運勢】
運気が好転し、順調に進む時。
功を焦ってはいけない。
自己管理を徹底し課題に取組むと良い。
柔軟な姿勢を心掛け、信頼する仲間との調和を大切にすると良い。
志高く、成果が出るまで堅実に努力を続ける事が大切である。
【結果】䷱◎二
火風鼎(かふうてい) 二爻
《卦辭》
[上爻 少陽][五爻 少陰][四爻 少陽]
[三爻 少陽][二爻 老陽][初爻 少陰]
《爻辭》
[二爻]
【原文】
《卦辭》
鼎は元(おほ)いに吉、亨(とほ)る。
彖に曰く、鼎は象なり。木を以て火に巽れて、亨飪(かうじん)するなり。聖人亨(かう)して以て上帝を亨す。而して大いに亨して以て聖賢を養ふ。巽(そん)にして耳目(じもく)聡明(そうめい)。柔進みて上行す。中を得て剛に應ず。是を以て元いに亨る。
象に曰く、木の上に火有るは鼎(てい)。君子以て位を正し、命を凝(あつ)む。
《爻辭》
九二。鼎に實有り。我が仇疾に有り。我に卽くこと能はず。吉。
象に曰く、鼎に實有りとは之く所󠄃を愼しむなり。我が仇疾に有りとは、終に尤なきなり。
【解釋】
〔王弼、東涯の解釋〕
《卦辭》
古い制度が新しく刷新され、新しい制度が定着するので大吉である。さらに、それが長くなる持続するので亨るという。鼎(かなえ)は食べ物を煮炊きする器である。程子はこの卦自体が鼎の形を象っているとする。初爻が鼎の足で、二爻から四爻までが鼎の腹、五爻が口で、上爻が蓋であるとする。下が木德であり、上が火德であるから、物の煮炊きに良いので、鼎とされるのである。革の卦と対応しており、五爻と二爻が応じており、和順で聡明である。だから、大吉なのである。何かをする時に人の助けがあり、その人に任せられる。君臣の心が通じ合っている。おそらく、亨と烹は音が通じるので古代にはどちらも使われていたのであろう。
《爻辭》
[王弼]
陽質で鼎の中にある。實があるものである。加えてはいけない。これを益すると溢れてしまう。却って実を傷つけてしまう。我が仇とは五爻の事を言う。剛の上に乗ることの疾に悩む。
[東涯]
仇とは好敵手のことである。初爻を指している。陽剛で中に居る。五爻と応じている。五爻のもとに行くのが良い。陰陽は互いに求めるのは天地の大義である。陽が陰を求めると正しきを得る。陰が陽を求めれば正しくない。人の付き合いは慎重にしなければならない。
〔根本通明の解釋〕
《卦辭》
鼎は三足の鍋で、天下の宝器であり、王の象徴である。日本でいうところの三種の神器である。鼎は五味を調和することが出來る。だから肉であれ、魚であれ、釜で煮た後、最後は鼎に移して味を調えたのである。天地宗廟の祭祀に用いる神饌は鼎で調理され、賓客への御馳走も鼎が用いられた。伏羲の時代には、一つの鼎が宝器であった。もとより天地万物は一つのものから生じたわけで、天地人の三才は鼎の三足、それが鼎により調和されるのである。それが黄帝の時代に三つの鼎になった。三才を表すためであるという。堯舜までは三つであった。その後、夏王朝初代の禹王の時代に九つになった。なぜなら、九州(漢󠄃土全体は九つの國に分かれていた)を象徴するためである。周代まで九つであった。政治も料理と同じで、五味を調和して誰にとってもおいしいものでなければならない。だから鼎が王の象徴なのである。王を助けるのは宰相であるが、この宰の字は肉を盛って料理をこしらえるという意味である。そして十翼に鼎を主るのは長子であるとする。つまり、皇太子が皇統を継ぐべきであるというのである。それでこそ元吉なのである。
[彖傳]
初爻が鼎の足、二から四までに☰があるが、これは物が入る部分である。五爻が耳、上爻が持ち運びのためのひもにあたる。五爻の耳に通すのである。元来、鼎は門外で煮炊きするもので、宗廟の門外東である。
[象傳]
木の上に火がある。火は物を煮炊きするのに必要であり、強すぎても弱すぎてもいけない。火にも陰陽があり、陽の火は強すぎて、すぐにものが焦げてしまう。逆に弱すぎると火が通らないで生のままである。陰陽が程よい状態ではじめて煮炊きが可能である。牛羊豚で鼎を分ける。是を三鼎という。三鼎は日月星を表す。心は巽順で耳目がしっかりしている。五爻の王は二爻の賢人を用いて大いに栄えるのである。
《爻辭》
九二は、二・三・四爻目に乾の卦があるから、丁度鼎の中に實を入れた所である。九二の仇である初六は、陰爻を以て陽位にあり位を得ていない。其所で賢人を嫉んで害する所の疾があり、趾(あし)を顚(さかさ)まにして上を侵そうとする。乍併、二・三・四爻目に賢人等が連なって居り、初六は迚(とて)も彼らを害するだけの力は無い。初六は四爻目に応じて居るが、其の間に陽爻が二つあり、四爻目と相合う事は出来ない。九二は六五と位が応じて居り、我が身にある学問道徳を以て、六五の天子に盡す。其所で鼎の中の實は、何処迄も六五へ往かなければいけない。其所で、之(ゆ)く所を慎むと云う。我が仇が嫉み害する所があっても、我には一点の隙も無いから、終には咎を受けない。