【運勢】
周りの目的と、自分の目的が違うので、協力して、物事を進めるのは難しい。
これは自然な事なので、焦ってはいけない。
焦って、相手に自分の目的を押し付けようとすると、反感を買うだけである。
今日は、自分一人で出来る事を行って、正しく生きる事を心掛けると良い。
忘れてはいけないのは、物事を進める為に止まるのであって、今後、進むべき時に、進む気力は持っておくべきである。
【原文】
《卦辭》
その背に艮(とどま)り、その身を獲(え)ず。その庭に行きてその人を見ず。咎めなし。彖に曰はく、艮は止まるなり。時止まるときは則ち止まり、時行くときは、則ち行く。動靜(どうせい)その時を失はず。その道光明なり。その止まるに艮(とどま)るはその所に止まるなり。上下敵應(てきわう)して相ひ與(くみ)せず。ここを以て、その身を獲ず。その庭に行きてその人を見ず。咎めなきなり。象に曰はく、兼󠄄ねたる山は艮。君子以て思ふことその位を出ず。
《爻辭》
初六。その趾(あと)に艮(とどま)る。咎めなし。永貞によろし。象に曰はく、その趾に艮(とどま)るとは、未だ正を失はざるなり。
【原文解釈】
〔王弼の解釈〕
《卦辭》
艮はとどまる意󠄃である。
山である。
山が二つ重なるので兼山ともいう。
應爻が一つもなく、互いに反発して人の顔をみようとしないので、背中しか見ないのである。
どこかに向おうとすることなく、その地位にとどまるだけである。
《爻辭》
初爻はどこにも行かず、今の位置に留まることがよい。
初爻は最下位であり、上昇したい気持ちもあるが現状を維持して問題ない。
また長く正しくあろうとすべきである。
〔根本通明の解釈〕
《卦辭》
『説卦伝』にあるように、艮は止まるのが宜しい。しかし止まると云っても、進むべき時に止まっては弊害が生じるので、注意しなければならない。
艮は人の身体でいえば背中に相当する。動くものは前にあり、背中は動かないからである。また欲は前の方から起こり、背中には欲が生じない。かつ世の中は欲の世界だが、背を向けていれば無欲でいられる。無欲であれば、我が身は無いのと同じである。我が身が無ければ、世間から訪ねて来る人もいない。荘子も「斉物論」で同様のことを言っている。人と交わらずに一人道を楽しんで居れば、何所からも咎を受けることはないのである。
『彖伝』にも艮は止まるとある。三爻目、四爻目、五爻目に震の卦があるが、これは進み行くことを意味する。止まる方にばかり偏ってはいけない。また艮の卦には時の象があるが、これは止まるべき所に於いて止まるという意味である。動と静の双方を含んでいることになる。つまり自身に相応(ふさわ)しい所で止まり、行けば良い時になれば動いていくのである。
初爻目と四爻目は陰爻同士、また二爻目と五爻目も陰爻同士、そして三爻目と上爻も陽爻同士であるから、いずれも相応じず親しまない。よって「其ノ身ヲ獲」ない。我が身に欲が無く、世間に望みを持たず、室から庭に出て行っても訪問者も見えず、従って咎を受けることもないのである。
『象伝』には「兼山ハ艮」とある。山が二つ重なっており、対立しているから、互いに動いて交わることがない。君子は自分の居所から外へ出ず、我が身を守っているので、外への考えが及ばないのである。
《爻辭》
「趾」は前に向かうもので卦の一番下にあるので趾(あし)にあたる。艮の卦は人の身体に象を取っている。外へ往くために最初に動くのは足である。足を止めて世間へ出ないから咎を受けることがない。貞しい所に居るのが宜しい。
『象伝』には「其趾ヲ艮スル」とある。「艮スル」とは止めるという意味であり、正しさを失ったわけではない。三・四・五爻目の震の卦になれば動く所となるが、初爻・二爻目では動くべきでない。言ってみれば、九三(三爻目)は正しさを失って居るが、初爻はそれと反対であるから正しさを失ってはいないのである。