6/25 (木) ䷓ 風地觀(ふうちかん) 五爻

【運勢】

心を清らかにする事で、行くべき道を観る事が出来る。

先の人生を見渡して、誠心誠意生きる事を決意すると良い。

行動を起こす際には、周りの人々の理解を得られるかどうかが大切である。

【原文】

《卦辭》

觀は盥(あら)ひて薦めず。孚(まこと)有りて顒若(ぎようじやく)たり。

彖(たん)に曰(い)はく、大觀上に在り。

順にして巽。中正以て天下に觀らる。「觀は盥(あら)ひて薦めず。孚(まこと)有りて顒若(ぎようじやく)たり」とは、下觀て化するなり。天の神道󠄃をみて四時たがはず。聖人神道󠄃を以て敎へを設けて天下服する。

象に曰はく、風地上を行くは觀。先王以て方を省み民を觀て敎へを設く。

《爻辭》

九五。我が生を觀る。君子は咎めなし。

象に曰はく、「我が生を觀る」とは民を觀るなり。

【解釋】

〔王弼、通解の解釋〕

《卦辞》

観は見ること、見られることである。

全体として艮☶の形であり、これは宗廟を表す。

宗廟に物を献ずるとき、神職は手を洗う。

手を洗うと今度は地上に酒を注いで神を降ろす。

その時、未だ捧げものをしていないが、天下の人々は仰ぎ見るという。

神は陽の存在であり、その姿は見えないが、四季が正しく順行しているさまに、神道の至誠を見るのである。

偉大な人は天の神道󠄃にしたがい、制度を整えて、よく治まったのである。

《爻辞》

五爻は君主の卦である。

自分の行いを見直し、有徳者と言える行いであるなら問題ない。

民が自分を慕っているかで判断するとよい。

〔根本通明の解釋〕

《卦辞》

「観」は大いに観るという義である。

高い所から遍く四方を観廻す所である。  

『春秋穀梁伝(こくりょうでん:春秋三伝の一つで、春秋の注釈書)』の隠公の五年に「視曰視非常曰観」とある。

「視」は常の事を詳らかに見ることである。

一方「観」は常でない変や禍などを見ることである。

『公羊伝(くようでん:同じく春秋三伝の一つで、春秋の注釈書)』にも「登観臺以記雲物」とある。

冬至の朝に観臺に登って、四方を観廻して普通でない形の雲物などを見て一ヵ年の吉凶を占う。

卦の上二つに陽爻があり、高所から明らかに観廻すことである。

天子は偏りなく遍く四方を観なければいけない。

また天子は諸侯と対面し、諸侯は天下の状態を悉く天子に申し上げる。

天子は孚(まこと)を以て諸侯に交わり、鬱鬯(うっちょう:鬱金香(うっこんこう)を煮て黒黍に混ぜ、醸造した酒。中国で宗廟に捧げた)の酒を賜る。

鬱鬯は香気が強く、香気は精神の誠の表れである。

上卦が巽で、巽は香気である。

鬱鬯酒を賜る時に、天子は手を洗って清める。

巽は潔さの象でもある。

顒(ぎょう)は大いなる頭で、顒若(ぎょうじゃく)は天子の尊顔を拝することである。

[彖伝]

明天子が上の方に在り、洽(あまね)く天下を観る義である。

順は天子の徳が天道天理に逆らうことの無いことである。

また坤は乾に順う。

天子は中正を以て天下を観る。

中正は五爻で陽爻が陽位にあるから正しい。

下から上を見るならば、天子は厳然と礼儀正しく坐して居り、拝謁する者は皆良い方へ感化される。

天子は天下を観る計りではない。

天の神道をも観る。

これは神仏の神ではない。

『説文解字』に「神者伸也引萬物而出也」とある。

乃ち天の元気を以て萬物を引いて出だすのである。

これは春夏秋冬の周期において萬物が生じ育つように、天子がそうした法に則り天下万民を能く生育することを神道という。

「聖人以神道」とは、天子の政は神道による教えによって天下悉く服することである。

日本における神道とは異なる。

[象伝]

地上一面に風が吹き渡る。

風は万物を育て、巡々と吹く。

天子はこの卦の義を用いて、東西南北に巡狩する。

方を省するというのは、天子は外から見えない内幕も詳しく御覧になることで、人民の様子を見て政治、教えを立ててこれを行う。

《爻辞》

九五は名君であり、能く我が身の行いを省みる。

道徳に沿い、賢人を用い、咎を得る所は無い。

[象伝]

天子は民が服しているか服していないかを見て我が行いの善悪を判断する。

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